きれいな花が咲くまでには・・・

タヒチかな?」をご覧のみなさんこんにちは。
8月29日〜9月2日まで、こちらのひたちなか整備課にインターンシップ実習でお世話になっている塩畑です。
本日は私、塩畑がブログを書きたいと思います!


さて、今日は国営ひたち海浜公園の歴史について皆様に紹介していきたいと思います。
茨城県出身の僕も知らないことが多かったので、茨城県外の皆さまはもちろん、県内の方にも興味を持っていただけると思います。



毎年、夏には国内四大ロックフェスの一つであり、日本最大級の野外ロックフェスである「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」が開催され、四季折々の花々が一面に咲き誇る国営ひたち海浜公園ですが、現在に至るまでには長く、悲しい歴史があったのです。


国営ひたち海浜公園があるひたちなか地区は、第二次世界大戦中は旧日本軍の水戸東飛行場として、戦後は米軍の水戸射爆撃場として利用されていました。しかし、地域の方々が誤爆などの被害に遭われるなどの背景があり、地元を中心とした十数年にわたる返還運動により昭和48年3月に日本に返還され、その後、広大な土地を利用するため、国の首都圏整備計画の一環として整備されました。


そんな国営ひたち海浜公園ですが、総面積は350ha(ヘクタール)もあるんですよ!この面積は、なんと、東京ドーム約75個分にもなるんです!しかし、開園されているのは全体の約46%の160ha。まだ半分は未開園なんですね。


みなさん興味を持っていただけましたか?もっと詳しく知りたい方は、国営ひたち海浜公園記念の森レストハウス内に、写真を中心としたパネルや不発弾などを展示している「歴史ギャラリー」が設けられているので是非、一度足を運んでみてください。